理研BSIニュース No.33(2006年9月号)

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津本 忠治

「脳」ブームの危うさ

神経回路メカニズム研究グループ
津本研究ユニット
ユニットリーダー
津本 忠治(つもと ただはる)


現在、日本は脳ブームだという。本屋に行くと脳関係の書籍コーナーがあり、「脳を鍛える」と称する本がところ狭しと並んでいる。また、「脳年齢」を改善するというゲームが売れに売れて、注文してもすぐに手にはいらないとも言われている。大手新聞社の夕刊にも「脳を鍛える」紙面があり、クイズのようなものが載せてある、等々。このような社会現象に当の脳研究者は如何に対処すべきであろうか?


一部の研究者あるいは自称「脳科学者」が十分なコントロールのデータもなく言っている戯言であるから、はなから無視すれば良いのであろうか?あるいは、脳のシナプスや神経細胞の働きといった素過程も十分わかっていないのであるから、そのような出版物やゲームの根拠のなさ、非科学性をはっきりと指摘すべきであろうか?


先日公表された第3次科学技術基本計画でも強調されているように、現在、脳研究を含めて多くの研究は多額の国費を使っているのであるから、その成果の説明と一般社会への還元が求められている。特に最近は、一般社会への研究成果のわかりやすい解説と、青少年の科学への参加を勧めるアウトリーチ活動が求められている。このような潮流の中で脳研究のアウトリーチ活動は、どのようにあるべきであろうか?


脳はこころや知情意の座であるとほとんどのヒトが考えているから、その研究はおのずからヒトの関心を引くのは極めて自然であろう。例えば、宇宙の果てで何が生じているのかといった研究は、知的興味をそそり科学的には重要な問題であろうが、それを知ったとしても特に現在の生活に直接影響があるわけではない。一方、脳の研究成果は知的興味もさりながら、ひょっとして自分の記憶力や知的能力を増進させたり、あるいは子供の学校での成績を良くする方法を教えてくれるかも知れない、という期待をも抱かせる。その意味で脳研究は、一般のヒトから見ても興味深く社会からも注目されやすい研究であるが、同時に誤解や間違ったリアクションを引き起しやすい研究であるとも言えるであろう。


そのように間違ったリアクションは冒頭に述べたように、現在、世の中に横溢しているのであるが、その「ブーム」の行く末を考えるために、ここで遠い過去の例を紹介してみたい。


小生のような年代の人間には、1950年代の「味の素」で知られるグルタミン酸ソーダ騒動が思い出される。グルタミン酸ソーダがイヌの大脳皮質に強い興奮性作用を示すことを1954年に報告したのは、当時慶応大学医学部の林髞教授であった。この調味料として有名なグルタミン酸ソーダそのものの発見者は、理化学研究所の創立と発展に貢献した池田菊苗博士であるが、その話は本稿の趣旨から外れるので、ここでは触れない。林教授の報告は、その後1980年代後半にようやく確立した興奮性伝達物質グルタミン酸の興奮性作用の最初の報告として、神経伝達物質研究の歴史の中では良く知られている。したがって、林教授の発見は科学的には日本人による脳科学への重要な貢献の一つであったといえるであろう。


しかしながら、その後林教授のグルタミン酸ソーダが頭の働きを良くするという説が世の中に広がり、そのため一部の家庭で味の素をごはんにふりかけて食べるといった流行を引き起こしてしまった。現在から見れば滑稽な笑い話であるが、小生の年代にはこのような味の素をごはんにふりかけて食べたという経験を持つ者が多い。さらに、当時のある幼稚園では園児に味の素を摂取させ、知能指数の変化を測定するといったこともなされたと言われている。その後、グルタミン酸ソーダは経口摂取しても脳血管関門を通らず脳には行かないことがわかって、このような味の素ブームは鎮静化し、忘れ去られた。しかし、その後、米国では John Olney教授のグループが、乳幼児では脳血管関門が未発達であるから、経口摂取したグルタミン酸ソーダは興奮性神経毒として作用する可能性があると、その危険性を指摘した。


この騒動の顛末は、大脳に対する興奮性作用の発見という科学的な観察結果を、脳の働きを良くするという思い込みへと飛躍させた論理の逸脱のため生じたと言って良いであろう。大脳に対する興奮性作用が、どのようなプロセスを経て知的能力を向上するのかといった仮説の構築とその検証研究はまったくなされなかった。このような非科学的な飛躍した思い込みが社会へ広がった結果、現代から見れば、ある意味では危険性を伴うリアクションを社会に引き起こしたと思われる。翻って、現在世の中に蔓延している「脳を鍛える」という話には同様の論理の飛躍、逸脱が見られる。このようなブームの行き着くところは、味の素騒動の顛末が暗示しているように思える。


上述したように、脳科学はヒトの日々の生活さらには人間観そのものにも直接影響を及ぼし得る科学であり、その成果発表には注意が必要であろう。一方で研究成果の社会への正しい説明も重要であり、前述のような科学的には問題の多い言説が世の中に広まっている現代社会においては、より一層正しい情報の発信が必要とされている。現実的には、複数の専門家の査読を経て学術誌への発表が認められた段階で、その意義をわかりやすく一般社会へ説明することが重要であろうと思われる。そのような観点から真に科学的な成果が多数発表されつつあるBSIに昨年4月、参加できたことは大変うれしいことと感じている。私たちの研究内容については、http://www.brain.riken.jp/jp/t_tsumoto.htmlをご参照下さい。





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